2021年4月30日に、伏見港が「みなとオアシス」に登録されました!
伏見港は1594年に豊臣秀吉によって整備され、京都と大阪を結ぶ河川水運の要衝として大きな役割を果たしてきました。大阪側の拠点・天満橋と淀川の舟運で結ばれていた伏見港の「みなとオアシス」登録を記念し、パネルなどを展示いたします。

※「みなとオアシス」は、「みなと」を核とした地域住民の交流や観光振興を通じた地域活性化を促進するため、地域住民の参加による地域振興の取り組みが継続的に行われる施設を国土交通省(港湾局長)が「みなとオアシス」として登録する制度です。

【伏見港の歴史】
伏見港は、豊臣秀吉が伏見城築城の際につくった河川港で、昭和の前半まで、京都と大阪を結ぶ水運の要衝として大きな役割を果たしました。
秀吉は、強大な権力と財力で、伏見を全国の有力大名が集まる天下の一大拠点へと発展させ、大量の物資を運べる水運がそれを支えました。
江戸時代に、京都の中心部と高瀬川運河でつながったことにより、伏見港はさらに発展し、参勤交代の大名の宿泊施設(本陣)や幕末の舞台となった「寺田屋」などの船宿も多く置かれるなど、多くの旅人で伏見のまちは大いに賑わいました。
鉄道の開通等により、水運の港としての役目は終えましたが、今も国内唯一の「川のみなと」(内陸河川港)として、遊覧船が運航する憩いの場となっています。

【十石舟・三十石船の運航】
「三十石船(さんじっこくぶね)」などの川船は、江戸時代に伏見からの酒や米などの搬出および旅客を大坂と行き来させるため、宇治川派流/宇治川/淀川の間を航行する輸送船としてはじまり、明治時代末期まで存続。坂本龍馬は寺田屋浜から三十石船に乗り、お龍とともに九州の霧島へ新婚旅行に旅立ったとされています。